水曜祈り会11月29日 金曜集会12月1日 吉田真司牧師

本日の学び テーマ:「その名はインマヌエル」 イザヤ7章10節14節(参照7章1〜9節)

【理解の手がかりとして】

イスラエルの人々は故国を追われバビロンに捕らえ移されてから半世紀、異国の地で次のように思っていたと想像する。「昔、自分たちを導き、支えてくれた王たちはいない。ダビデの国はすでに滅んで、また自分たちを苦しめ続けたバビロンを倒し政治的に解放してくれたペルシャ王キュロスも、本当の自分たちの痛みを分かってくれない。やはり彼も一人の外国の王に過ぎなかった・・・」と。

旧約のイザヤ書7章に書いてあるのは紀元前8世紀の話、ユダの王アハズの時代のこと。その当時、イスラエルは北イスラエルと南王国ユダに分裂していた。そしてその地域で強い勢力を持っていたのはアッシリアであった。

いつの時代にも争いがある。大国アッシリアも北イスラエルなどの国々に圧力をかけていた。それに対して北イスラエルはアラムと反アッシリア同盟を結成し、南王国のアハズ王にも、その同盟に加わるよう圧力をかけていた。

アハズ王は迷った。「アッシリアにつくか、それとも反アッシリアにつくか」と。その心の揺れが、2節によく現わされている。「王の心も民の心も、森の木々が風に揺れ動くように動揺した」(7:2)と。このアハズ王の迷いはある意味当然かもしれない。自分が治めている国の将来が大きくかかっているのであるから。目の前の脅威の前に、具体的な解決を求めてこの世の力に頼りたくなるのもよく分かる。

・・・けれども、そんな時こそ神様から問われる。「あなたにとって主人とは誰か?」と。「人間的にはよく理解でき、政治的に賢明と思われることも、信仰の目から見て正当であるとはかぎらない」(『NTD旧約聖書註解』より)。

主はイザヤに言葉を託す。「彼(アハズ)に言いなさい。落ち着いて、静かにしていなさい。恐れることはない。・・・心を弱くしてはならない」(7:4)と。また主は言われる。「それは実現せず、成就しない」(7:7)と。人間のいかなる策略(北イスラエルとアラムの謀)も、脅かす脅威も、主なる神の前では全く無力。大切なのは主の力に期待すること、主に助けを求めること、主の御声に聞き従うことである。主は言われる。「信じなければ、あなたがたは確かにされない」(7:9)と。

主はアハズに言われた(※ここからイザヤを介さず、アハズへの直説法に変わる。おそらくイザヤが間に立ち、主の言葉を取り次ぐ中でのやり取りと思われる)。「主なるあなたの神に、しるしを求めよ」(7:10)と。これは、主なる神こそ、真実のしるし、道しるべであることを言っているのである。

とはしない」(7:12)と。これは一見、信仰深い言葉のようにも聞こえる。しかし実際には彼の心は主に対する信頼が弱まっている。「ルターは彼(アハズ)の偽善を非難していう。『偽善者たちはこうだ。彼らは必要でないところできわめて敬虔である。これに反して彼らは、謙虚であるべきところできわめて高慢である。しかし神が、大胆に行えと命じるところで、大胆に行わねばならない。というのは、み言葉に従うことを、神を試みるとはいわないからである』」(『NTD旧約聖書註解』より)。

そのアハズに対してイザヤは言う。「ダビデの家よ聞け。あなたたちは人間に、もどかしい思いをさせるだけでは足りず、わたしの神にも、もどかしい思いをさせるのか」(7:13)と。この「もどかしさ」とは、子の行動に関して直接手を出さずに見守っている親の心情が当てはまる。そしていよいよその介入のしどころの決断がなされる、それが14節へとつながる。

「それゆえ、わたしの主が御自ら、あなたたちにしるしを与えられる。見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ」(7:14)―――ここで、14節で預言される「男の子」とは誰のことを指すのか、中には「イザヤの将来の息子」とか「ユダの民の間に誕生する男の子たち」という解釈もある。今回の『聖書教育』で展開されているのはその後者の解釈も踏まえてのことである(→聖書の学び「3.インマヌエル」)。

いずれにしても、「この苦しい中にも神は私たちと共におられる」(聖書の学び〜3.インマヌエル)という神の約束への確信へとインマヌエル預言は私たちをいざなう。※「インマヌエル」―――「インマヌ−」という言葉と「エル」という言葉が結びついた言葉。「インマヌ−」は「我々と共にある」で「エル」は「神」。「インマヌエル」とは「神は我々と共におられる」(マタイ1:23)という意味である。―――「信仰は無制限な信頼であって、人間の全的な帰依を要求するものであり、またこの帰依においてのみ神は苦闘の中の助け手として体験されうるのである」(『NTD旧約聖書註解』より)。

主の天使がヨセフのもとに現れた出来事の中で、マタイによる福音書は、このイザヤの預言に触れ、おとめマリアから生まれる男の子「イエス」がそれだとはっきり記している(マタイ1:22-23)。主なる神が私たちと共にいる「しるし」、それがイエス。これは歴史上、後にも先にもない決定的な「しるし」である。

その預言が、イエス様がお生まれになる700年以上も前に、イザヤの口を通してなされたのである。私たちのより頼むべきお方はだれなのか、そして、真の救いはだれから来るのか、その問いに対する確かな答え、つまり「しるし」を、待降節(アドベント)の期間を通して、それぞれの心に明確にして頂こう。

Copyright (C) 2023 Japan Baptist Sagami Chuo Christ Church. All Rights Reserved.